タイトルの通り、嵐のように、里帰りをした。
なぜ、嵐のようだったかというと、里帰りが目的ではなかったというだけだ。
その様子は自身の所属する映像プロダクションのレポートのコーナーで近日中に紹介します。
(たぶん明日です)
やはり、里帰りは無条件で良い。
耳が痛くなりそうなほど静かで、目が痛くなりそうなほどに緑が多くて、喉を通る空気がミントガムを噛んだ後のようにスーっと流れて、最高だ。
もちろんそれはたまに、体験する田舎の風景だからかもしれない、確かに一週間も過ごせば、都会の喧噪に毒されている僕なんかは、なにか物足りないものを感じてしまいそうだ。
それに家族にあうことのできる喜びは大きい。
無条件で自分のことを認めてくれる存在。絶対に他に、その感覚、感情は存在しないと思う。
三浦綾子が書いた「母」にも表現されている通り、どんなに世間が悪人、犯罪者、異常者、と呼ぼうが、家族の絆は揺らがないと信じているし、信じたい。
例え、僕の母親が犯罪者だとしても、僕を産んで育ててくれたことには、かわりないし、そこには罪をも超える感情があると信じている。(もちろん僕の母親は犯罪者ではない)
僕もこの年(27歳)になるまで、そんなことを考えたことはなかった。親が子供を育てることは当たり前のことで、誰もがそうして育ち、大きくなったと、漠然と考えていた。だから僕が親から受けた愛情も当たり前だと思っていた。けれどこの年になると生きる苦しさ、家族を持つ難しさを、ひしひしと肌で感じることが多くなる。当たり前と思って受けてきた恩恵の大きさ、大切さに、嫌でも気付かざるおえない。
世の中の大抵の男がマザコンと言われようが、僕はかまわない。
特に僕の、昔の家庭環境を考えると、大変だったよね、ありがとうと、なんて言葉が小さすぎて足りないくらいだ。
最後に帰りの水戸の友部サービスエリア、なんか懐かしい匂いがした。焚き火が終わった後のような匂い、東北の匂いだ。東京に状況した頃を思い出した。長らく住んだ地元を離れて、始めての里帰り、不思議な気分だったな、自分の居場所が特定できない、宙に浮いたよう感覚だった。
流れた時について考えていたら、丁度、帰りのバスの中で読んでいた本の中に
「若いということは、無駄なことの連続です。けれど、その無駄使いをしないと良い大人にはならないのです。死にたいくらいの悲しい出来事も、後になってみれば、素晴らしい無駄使いの思い出として、心の内に常備されるのです」
という文章を見つけた。上京して十年近く、僕の無駄な時間は何処に溜まっているのだろう、僕は思う、その素敵な無駄な時間が溜まった場所を見つけることが出来れば、生きる意味の何千分の一が分かるのではないだろうか。